とりあえず

どうしても受け入れられない考え方、価値観がある。

 

偏見といえば偏見ではあるが、少しでものような気配を

感じると、とりあえず関わらないようにしている。

 

どうしてもソリが合わない相手というのは、自分と似ているから

だとか、彼らから学ぶべきものがあるとかいうが、

 

この歳になって、感じたのが、やっぱり無理。。。であった。

 

そもそも、向かう方向違うし、目的も違うし、自分からしたら

相手の正義感はまったく的はずれであると感じているので、

一緒に居ても、win-winの関係などありえないだろう。

 

お互いに学びあえるのであれば、私が相手を受け入れられる。

 

でも、どちらか一方だけに負担がかかるのであれば、フェアでは

ない。

 

受け入れる側も、相手も自分を受け入れていると実感できるから、

カルマを解消できるのである。

 

なので、我慢してまで関わることない。出会ったら最後だが、

職場にしろ、プライベートしろ、相手は存在していないと

イメージして過ごせばいいだけの話。

 

性質の悪いことに、そういう相手とは何かしら因縁めいた出来事が勃発

することが多々ある。

 

恋愛では、非常に刺激的ではあるだろうが(そういうロマンチストな者もいる)

現実は現実。

 

まだ比較的平和ボケしている日本という国があれば、その瞬間のうちに世界で紛争や貧困があるように。でもこれは俗にいうフェイクニュースとかではなく、経験(難民や亡命者)した者にしか理解できない。でも彼らには、これが現実なのだ。という。

 

15年ほど前は、映画にしろドラマにしろ、妙に上手くいきすぎる脳内お花畑な

結末→いまでは、こういう内容のストーリ―は二次元小説とか、女性向け小説に

だけ限られているように感じる。

だが今では、どちらかというとその逆。

光だけがライトアップされているだけでは、物足りない。

それだけ、世間は、皆を苦しめる非常に優遇された存在の正体を暴きたいのであろう。

 

そういう時代の流れを見ていると、ヨイショされる存在という者に納得がゆく。

そういう存在を光へ崇めることの方が叩きやすからである。

 

よく、そういう相手から、どうせ人気者に対する僻みであるように勘違いされるが、

とりあえず、お言葉通り、そのように振舞うようにしている。

 

なぜなら、それが社会を生きていくのに一番楽な生き方だから。